こちらでは、フランス共和国の世界遺産について、建造物に分類される文化遺産を中心にご紹介したいと思います。西ヨーロッパの中でも特に高い文化的価値を認められている芸術の国――フランス。ヨーロッパの世界遺産を語る上では外せない国と言っても過言ではないでしょう。
トップページでは、個々の世界遺産に先だって、フランスにまつわる歴史的なエピソードをご紹介したいと思います。
◎フランスの歴史にま
トップページでは、個々の世界遺産に先だって、フランスにまつわる歴史的なエピソードをご紹介したいと思います。
◎フランスの歴史にま
こちらでは、フランス共和国の世界遺産について、建造物に分類される文化遺産を中心にご紹介したいと思います。西ヨーロッパの中でも特に高い文化的価値を認められている芸術の国――フランス。ヨーロッパの世界遺産を語る上では外せない国と言っても過言ではないでしょう。
トップページでは、個々の世界遺産に先だって、フランスにまつわる歴史的なエピソードをご紹介したいと思います。
◎フランスの歴史にまつわるエピソード
〜フランス革命(前編)
フランスの歴史を語る上で、フランス革命を外すことは許されないでしょう。こちらではフランス革命の全貌についてお話しさせて頂きたいと思います。
革命前夜のフランス王国では、アンシャン=レジームと呼ばれる権威主義的な旧体制への反発が強まっていました。
アンシャン=レージムという旧体制においては、国王を中心として、第一身分である聖職者・第二身分である貴族・第三身分である平民が明確な階層を形成しており、上位である第一身分・第二身分には特権が付与されていました。なんと、多くの財産を持っているにも関わらず、聖職者・貴族には免税特権が与えられていたのです。
第三身分とされた平民には、裕福な商工業者や資本家などから形成されるブルジョワジー階級と、下層労働者の階級であるサンキュロット、そして農民という様々な層が含まれていましたが、この時点では十把一絡げに第三身分として扱われており、納税の義務を負っていたわけです。
そんな中、当時のブルボン朝フランスは財政的に逼迫しており「このままでは破綻しかねない」という状況ありました。理由はフレンチ=インディアン戦争・アメリカ独立戦争などに莫大な戦費がかかったことです。
当時、国家の財務を管轄していたネッケルという銀行家は、特権身分である聖職者や貴族にも課税し、危機的な財政状況を打破しようとするのですが、当然ながら特権階級がすんなりと首を縦に振るはずはありません。貴族階級は、三部会という身分制議会を招集して議論するように要求しました。
この頃のフランスは、イギリスとの戦争で度重なる敗北を喫しており、すでに王権の絶対性は揺らぎつつあったので、ブルボン家側も貴族の要求を無視することはできませんでした。結局、170年ぶりに議会――三部会を招集することになったのです。
しかし、議会は課税の話をする以前の状況になりました。議決方法をめぐって、特権階級と第三身分が揉め始めたのです。第一身分・第二身分の特権階級としては課税を拒否したいわけですから、身分ごとに一票という方法を支持。(これだと、2対1で特権階級の言い分が通ります)対する第三身分は、一人一票を要求しました。(第一・第二身分は各300人なのに対し、平民である第三身分は600人が三部会に参加してました。当時は、すでに貴族の中にも平等主義を支持する自由主義貴族が出現していたので、彼らの票が入ることを考えれば、充分な勝機があったわけです)
結局、議決方法を相談するだけで議会が紛糾してしまい、何の結論も出せないまま時間が過ぎていきます。最終的に、第三身分は三部会を無視して自分達だけの議会――国民議会を造ってしまいました。国民議会は「憲法の制定を目指す」という目的の下に団結し、テニスコートに集まって「最後まで戦い抜く」という決意を誓い合いました。これが、古典主義画家ダヴィドの絵画にもなった『テニスコートの誓い』と呼ばれる出来事です。
時の国王:ルイ16世は武力鎮圧を試みますが、パリの民衆は、当時政治犯を収容していたバスティーユ監獄を襲撃。ここから溜まりに溜まっていた民衆の不満が爆発――武力蜂起が頻発し、ついにフランス革命がスタートしました。
国内はメチャクチャに混乱し、ブルボン王家による政治掌握はとうとう崩れます。特権身分側も収拾に四苦八苦し、その間に第三身分らの国民議会が主導権を掌握したのです。
知識階級である貴族の中から国民議会に参加していたラファイエットなどの自由主義貴族が存在していたことで、国民議会の政治判断がスムーズに進んだことも大きな後押しとなったことでしょう。教会に納める十分の一税・領主裁判権といった封建的特権が次々に廃止されていきました。ラファイエットが起草したフランス人権宣言が出されたのも、このタイミングです。
焦ったルイ16世は再び武力で押さえ込もうと躍起になりますが、時既に遅しと言ったところでしょう。パリでは女性たちまでもが武装して、国王が住んでいるヴェルサイユ王宮を包囲。捕まった国王一家は、パリ郊外のテュイルリー宮に軟禁されたのでした。
国民議会はとうとう憲法を制定。(1791年憲法)フランス王国の絶対王政は終わりを告げ、立憲君主制への移行が完了しました。
しかし、ここまでの動きは自由主義貴族・上層市民(ブルジョワジー)などの知識層手動で行われたもの。下層民衆の団結を禁止するル=シャプリエ法が制定されたりと、下層民衆を無視した決定が当たり前のように下されていたのです。
また、議会の中にも立憲君主制をゴールと考えている(=この時点で目的は果たしたと考えている)フイヤン派・最終的には徐々に共和政を目指したいジロンド派・即座に共和制に移行したいジャコバン派という三勢力が存在しており、まだまだ火種はくすぶっていたのでした……。
続きにあたる後編は「フランスの街並みをめぐる〜世界遺産旅行ガイド」にて公開していますので、そちらも併せてご覧ください。
※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
wikipediaはコピーレフトという考え方を標榜しており、引用・再利用が自由です。
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◎フランスの歴史にまつわるエピソード
〜フランス革命(前編)
フランスの歴史を語る上で、フランス革命を外すことは許されないでしょう。こちらではフランス革命の全貌についてお話しさせて頂きたいと思います。
革命前夜のフランス王国では、アンシャン=レジームと呼ばれる権威主義的な旧体制への反発が強まっていました。
アンシャン=レージムという旧体制においては、国王を中心として、第一身分である聖職者・第二身分である貴族・第三身分である平民が明確な階層を形成しており、上位である第一身分・第二身分には特権が付与されていました。なんと、多くの財産を持っているにも関わらず、聖職者・貴族には免税特権が与えられていたのです。
第三身分とされた平民には、裕福な商工業者や資本家などから形成されるブルジョワジー階級と、下層労働者の階級であるサンキュロット、そして農民という様々な層が含まれていましたが、この時点では十把一絡げに第三身分として扱われており、納税の義務を負っていたわけです。
そんな中、当時のブルボン朝フランスは財政的に逼迫しており「このままでは破綻しかねない」という状況ありました。理由はフレンチ=インディアン戦争・アメリカ独立戦争などに莫大な戦費がかかったことです。
当時、国家の財務を管轄していたネッケルという銀行家は、特権身分である聖職者や貴族にも課税し、危機的な財政状況を打破しようとするのですが、当然ながら特権階級がすんなりと首を縦に振るはずはありません。貴族階級は、三部会という身分制議会を招集して議論するように要求しました。
この頃のフランスは、イギリスとの戦争で度重なる敗北を喫しており、すでに王権の絶対性は揺らぎつつあったので、ブルボン家側も貴族の要求を無視することはできませんでした。結局、170年ぶりに議会――三部会を招集することになったのです。
しかし、議会は課税の話をする以前の状況になりました。議決方法をめぐって、特権階級と第三身分が揉め始めたのです。第一身分・第二身分の特権階級としては課税を拒否したいわけですから、身分ごとに一票という方法を支持。(これだと、2対1で特権階級の言い分が通ります)対する第三身分は、一人一票を要求しました。(第一・第二身分は各300人なのに対し、平民である第三身分は600人が三部会に参加してました。当時は、すでに貴族の中にも平等主義を支持する自由主義貴族が出現していたので、彼らの票が入ることを考えれば、充分な勝機があったわけです)
結局、議決方法を相談するだけで議会が紛糾してしまい、何の結論も出せないまま時間が過ぎていきます。最終的に、第三身分は三部会を無視して自分達だけの議会――国民議会を造ってしまいました。国民議会は「憲法の制定を目指す」という目的の下に団結し、テニスコートに集まって「最後まで戦い抜く」という決意を誓い合いました。これが、古典主義画家ダヴィドの絵画にもなった『テニスコートの誓い』と呼ばれる出来事です。
時の国王:ルイ16世は武力鎮圧を試みますが、パリの民衆は、当時政治犯を収容していたバスティーユ監獄を襲撃。ここから溜まりに溜まっていた民衆の不満が爆発――武力蜂起が頻発し、ついにフランス革命がスタートしました。
国内はメチャクチャに混乱し、ブルボン王家による政治掌握はとうとう崩れます。特権身分側も収拾に四苦八苦し、その間に第三身分らの国民議会が主導権を掌握したのです。
知識階級である貴族の中から国民議会に参加していたラファイエットなどの自由主義貴族が存在していたことで、国民議会の政治判断がスムーズに進んだことも大きな後押しとなったことでしょう。教会に納める十分の一税・領主裁判権といった封建的特権が次々に廃止されていきました。ラファイエットが起草したフランス人権宣言が出されたのも、このタイミングです。
焦ったルイ16世は再び武力で押さえ込もうと躍起になりますが、時既に遅しと言ったところでしょう。パリでは女性たちまでもが武装して、国王が住んでいるヴェルサイユ王宮を包囲。捕まった国王一家は、パリ郊外のテュイルリー宮に軟禁されたのでした。
国民議会はとうとう憲法を制定。(1791年憲法)フランス王国の絶対王政は終わりを告げ、立憲君主制への移行が完了しました。
しかし、ここまでの動きは自由主義貴族・上層市民(ブルジョワジー)などの知識層手動で行われたもの。下層民衆の団結を禁止するル=シャプリエ法が制定されたりと、下層民衆を無視した決定が当たり前のように下されていたのです。
また、議会の中にも立憲君主制をゴールと考えている(=この時点で目的は果たしたと考えている)フイヤン派・最終的には徐々に共和政を目指したいジロンド派・即座に共和制に移行したいジャコバン派という三勢力が存在しており、まだまだ火種はくすぶっていたのでした……。
続きにあたる後編は「フランスの街並みをめぐる〜世界遺産旅行ガイド」にて公開していますので、そちらも併せてご覧ください。
※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
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